山頂6時雨
気温9.6度
風強風
視界50メートル
昨日とはうってかわって雨と風、しばらく好天は望めない予報。山頂は完全に秋に支配された世界
2019.8.28
〜誤算シリーズ3〜
山小屋の仕事に就いた2010年頃までの私にとっての詩は音楽と常に対のモノであり、つまり歌詞としてのものが主だった。
曲がありそこに乗せるためのモノであったり、詩がありそれを乗せる為の曲を創ったりしながら完成へと向かう、作詞はその完成へのプロセスの一つだった。
山で詩を描けなかった私はまずその“音楽に乗せる為“という大義について疑いを持つ事になる。
「詩人よ自由に語れ」
といくら宣言しても、元々音楽自体への知識も自分の手で生み出せる音の多様さも持ち合わせてはいなかった事を思い知る。
その根本には、自分は音楽自体にそもそもの興味もこだわりもないのではないか、という周りのミュージシャンとの間に薄々感じていた距離感のようなものがあり。
それが遂に確信へ変わるという事態を引き起こした。
音楽を自由に奏でられない以上、その中に乗せる詩には必ず縛りがでてくる。
文字数や言葉の響き、韻を踏む技法やサビの存在、3分や5分といった時間制限。
それは確かに、完成させるという一点において有効な縛りである事は間違いないが、いつのまにかその縛りに頼りきっている自分を見つけ、そこから脱したいという欲求が強くなった。
音楽を作る為の詩を求め山へ行き、音楽を作ることから遠ざかる道を歩きたくなった。
本末転倒とはまさにこの事。
しかし、そんな風にそれまで積み上げたものをいとも簡単に捨て去ってしまう様な自分は嫌いじゃない。
詩人はこうも言っていた
“何事にもこだわらない事にこだわり続け….”
つづく。