7月18日 am5時30分
気温:12.8度
風:弱い
視界:30メートル
今は深いガスの中、風は弱い、これから晴れるかもしれない、と思える少し明るい空。
自分の名前を何かに記す
まずは名前を記す行為とは何を意味するのか、ってとっからいかないと。
いや、
それがいわゆる全てなのか。
じゃあ
何故、
ある時代のどこかの誰かは、
鳥海山の頂に達し、
おそらく何か、
硬い、
ここに在る石より硬い何か、
ピッケルの先のようなもので、
石を少しずつ削り、
時と名前を記したのか。
昨日のブログの写真の石(ということで写真は今日も採用)であれば、
1990年6月13日、
今から約30年前、
毎年7月2日を山開きとし、小屋営業が始まる時代、
つまりは、山開き前、山頂の雪が溶け始める時期、まだ小屋への人の常駐のない、静かなる時期(登山ブーム時代ならこの時期から山頂が混んでいたかもしれない、いや、雪がある以上マニアックな登山になる、アイゼンというものだって一般的ではなさそう)、人がよく通る石段の途中の大きめの石に、
おそらくその日のパーティー全員の名前が描かれているように見える。
この日、
我ら、
鳥海の頂に達す。
携帯電話もない、SNSもない、カメラは写真家というかなり特殊な人種のものだったろう。
その日そこにいた、
という証明は確かに、
そこにあり続ける岩に、持ち物であるピッケルで文字で記す。
という事しかない、かもしれない。
証明する為
証明ね、証明
自分の証明
そこにいた証明
自分が生きていた証明
山に登る生き方の証明
他の誰でもない、自分という人間の証明
人間は、自分を証明したがる生き物である
って事か、
もうちょっと考えてみようかな